夜想花

突然の、電話。 「これから桜を見に行かないか?」 もう、時間は22時。普通なら人を誘うような時間じゃないわよ、と言おうとしたのだけれど――。 口が動かなかった。 それより先に鳴海の甘い言葉が私の脳裏を溶かしてしまった――。 「見たいんだ――どうしても」   何故? 何故そんなに苦しそうに、なのに愛おしそうに。     結局私は「ええ」と頷いていた。 鳴海が私のアパートに現れたのはそれから30分もしないうち。 彼の家からの距離を思うと、もう出かける間際に誘ったのだろう。 そうでもなければ、こんなに早く着く筈、ないもの。 少し淋しげな微笑みを浮かべて私を自分の車の助手席に着かせると鳴海は無言のままに車を走らせた。 何処へ行くの――?   私はなんだか聞き出せなかった。 口を利くことさえ何故だか、躊躇われて。 沈黙が車内を制したまま、私はただ誘われるままに。 請われるままに。 彼と共にいた。 やがて静かに車が止まる。 郊外の、少し荒れた感じの洋館の、その小さな駐車場に。 「ここ、は?」 車から降り立った私は戸惑いながら鳴海に聞いた。 「ここは、俺の母の持ち物だった洋館だ」 切なげに、洋館を見つめる鳴海。 そういえば、鳴海の母親はもう疾うに亡かった。 ここは、鳴海の思い出の地。 亡き母の想い出が多分、沢山詰まった――場所。 鳴海は私の腕を無言で取るとゆっくりと歩き出した。 何も語らず。 視線は満月の灯りで照らされた懐かしい館を見ることもなく、どこかに続いてる荒れた道を見て。   ねえ、何を思っているの? 何故そんなに淋しげにしているの? 声に出せない。 その事が酷く歯がゆい。 私はここにいるのに。 貴方を誰より大切に思う私がここにいるのに。 貴方は私を素通りして過去を見てる。 わたしを、みて――。 駐車場から続く道は何度か交わり、分かれ――。 洋館をぐるりと一巡りして、洋館の裏庭へと続いていた。 そしてそこに、桜の森が広がっていた。 「……………」 目の前に圧倒的に広がる桜の森。 月明かりに照らされて、淡い花びらは透明度を増して。 森の奥は闇に覆われて見えないけれど。 闇と透明の遠近がよりいっそう美しく感じられて。 溜め息をついた。 「美しいだろう?」 鳴海の囁きに私は頷いた。 「綺麗ね、本当に――」 それ意外にどう言葉にしていいのか分からなくて、ただありふれた陳腐な言葉が口に出る。 鳴海が私の腕をそっと離し、肩に手を廻す。 ゆっくりともたれかかって、私は眼を閉じた。 ああ、こんなにも美しいと思えるものに出逢ったのは何時以来だろう。 もしかしたら前世で初めてポセイドンに出逢ったとき以来かも、しれない。 もう、本当にそう思えてしまう。 彼に出逢ったときのことは――。 夢物語のように美しく自分の中で美化されているのだとしても。   鳴海がゆっくりと歩を進める。 桜の森の、その奥へ。   足下は大分心許ない。整然と植えられた桜の木々の間を貫く中央の道は軽く5メートルはあって、け れど舗装などされていないから根が地に出ていない中央あたりを歩いていたけれど。 でも、桜の花びらが光を足下まで通してくれないから。 自分たちの美しさのために月光を吸い取って足下へ廻してくれないから。 鳴海の手に縋りながらゆっくりと歩を進めて。 どのくらい歩いたか。 5分くらいは歩いたと、思う。 際奥に、一際大きな桜。 私の手が回りきらないような、太い幹をした、淡い桜。 その桜の下に、私たちは腰を下ろした。 満開の桜花の下。 風もないのに舞い散る花を見ている。 たまに静かに手を差し伸べては散る花を手に受け止めようと、して。 見交わす瞳。 お互いの瞳の中にお互いを映しながら、ささやかな、触れるだけの唇の行為。  ゆらゆら揺れる。 ゆらゆら ゆらゆら   揺れているのは私? 私の心? 揺れているのは桜? 桜の心? とりとめもなく、とめどもなく。 思考が麻痺しながら、鳴海を見つめている私が、いた。 いつの間にか、桜の輝きが変わり始めていた。 月が、沈むのだ。 夜明けが近い。    「今日は、悪かったな。突然だった」 鳴海が背後から私を抱きしめたまま呟く。 私は何も言わず私を抱きしめる手に私の手を添える。 「もう、この光景は今年で最期なんだ。 母の愛したこの洋館も、もうすぐ売られてしまう」 淋しげな微笑みのわけを私は知った。 今年が最期だから。 だからだったのだ。 「母の愛したこの洋館が人手に渡ってしまう前に、この光景をお前と見たかった――」 鳴海の呟きが酷く痛々しかった。 鳴海には、いや、ポセイドンには、母という存在が酷く希薄だった。 レアはゼウスのみを愛し、ポセイドンをゼウスを全能神とするための手段としてしか見ていなかった。 裏切られて、憎んで。憎んで――。 この世において一条鳴海の母は、末っ子である鳴海に甘い存在だったという。 ふわりとした、どこ か世間離れした女。 その女が愛し、よく訪れたこの館。 その館が人手に渡ることを鳴海は酷く悲しんでいたのだった。 「ねえ、いつか戻ってきましょうよ、この森に」 瑶子がささやいた。 「いつになるか、分からないけれど――貴方の頑張り次第では結構早くにここに戻ってこれるかもし れないわよ?」 微笑む瑶子。 確かに今の私ではここを買い取ることは少し難しいが。 未来においてそれは確約できぬことではないと。 そう、言うのだ。 愛しい女の愛した館。 愛しい女の想い出に耐え切れぬ男がこの洋館を売るというのなら、私は愛しい母の想い出を無くさぬ 為にこの洋館を買うだろう。 想い出は苦しいものではない。愛おしいものだ。 愛された記憶は、尚更。   いつか、帰ってこよう。この場所に。 夜が明ける。 日の光が世界を青く染め、透明になり――やがて金色の光が満ちる。 桜も光を浴びて輝きをまた変える。 夜に見せた顔とはまた違った顔を。 変わらないのは――抱きしめた腕の中でいつの間にか眠ってしまった女だけだった。     目覚めたとき、そこは鳴海が運転する車の中だった。 ちょうど朝の通勤ラッシュ。 渋滞する車の波が目覚めて直ぐに目に入った。 「さて、今日はどうする予定だ?」 隣から鳴海の声。 「そうね――まずはゆっくりと食事にしましょうか」 微笑んで、私は答えた。 桜。桜。 桜の森よ。 いつかまた還るから。 私たちが再び出逢ったようにまた還るから。 変わらぬ花をまたその時に――。
END
 
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かのっちから素敵小説を戴きましたv有難うっっ!!!
私もポセと桜を観に行きたい〜!でも隣りにはやはりアンフィが一番お似合いですねv