言の葉の標
胸が、どきどきする。 恋をするのは、初めてではないのに。 何故こんなにも、と自分で自分が不思議に思えるくらい。
恋って、不思議に、欲張りなものね。
その夜は、月が細かった。 猫の爪のように細い月の代わりに、星々はいつにもまして輝いているような、そんな夜。 人々は戯れている。 今宵は、七夕ーー一夜と限られた、恋人たちの逢瀬の夜。
宴は尽きない。 時刻は終に深更にも達しようという頃になって、ふらっと一人の青年が座を抜け出した。 宴は尽きねと言えど、既にへべれけとなって隣の人の動向など構っている者もない。 抜け出すには程よい頃合であった。
待ち合わせは、池の辺。
既に幽かに露を帯びた草花を辺りに散らして、池は静かに泳ぐ魚達の息吹を躍らせていた。 「瑶子」 佇む人の名を呼べば、ふわりと微笑んでその人は振り返る。 「随分、遅かったのね」 拗ねた素振りを見せながら、実はその来訪をひどく喜んでいるのは瞳の底に宿る輝きを見 ればすぐに分かること。 きらきらと輝く瞳は喜びに溢れている。 「悪かった……なかなか抜け出せなくてね」 それもまた仕方ないことではあるのだ。 何故か今日に限って酒豪ばかりがこの宴に参加しているとあっては。 自分も酒に強いほうだと自称する一条の中将であっても酔った振りをして、相手に酒を飲 ませて程よい頃合まで待つのは非常に忍耐を強いられることであったのだ。 「でも、私も姫様がなかなか放してくださらなくて……だから、おあい子、かしら?」 くすくすと袖で口を覆って瑶子は笑った。 亜理沙姫は今日の宴に参加できずどうやら随分ご機嫌斜めであったようだ。
「それにしても、今日は本当に星が綺麗だわ」 瑶子は空を見上げるでなく、呟いた。 その視線の先にあるのは揺れる水面。 水に映った星は揺れながら、その輝きで水面に反射する輝きを幻想のように見せていた。 「随分と、今日はご機嫌なのだね」 中将は瑶子の肩を抱き寄せて、自分へと引き寄せる。 笑って瑶子は中将に問い返す。 「なあに? 中将はあまり機嫌良さそうではないわね」 「私は君があまりに機嫌のよい理由を知りたいだけだよ」 それこそ可笑しいわ、と瑶子は笑う。 「まるで、妬いているみたいね」 中将はむっとして、眉をひそめた。
瑶子は、考えたこともなかった。 中将は嫉妬などすることがないと思っていた。 嫉妬するのはいつも私のほう。 彼に近づく女性達をいつも嫉妬していた。 宮中で華やかに広げられる恋絵巻の中にどうか彼が顔を連ねていないように、いつも思っ ていた。 なのに、可笑しいわ。 そしてとても、嬉しいわ。
「私は是非とも、そのご機嫌な理由を知りたいのだけどね」 終には憮然とした声で中将は瑶子の喉下に唇を這わせて脅迫するように言う。 「もう……」 困ったように言いながら瑶子は喘ぐ。 「だって、今日は七夕、でしょう? 恋人たちが出会えたでしょうと思うと、なんだか気分が良かったの」 意外に単純な理由に中将はおや、と目を開いた。 「子供っぽい、かしら?」 瑶子は真正面にきた中将の顔に困ったように微笑んだ。 「……いや、瑶子らしいね」 笑んで、中将は瑶子に口づけた。 口づけはとても魅惑的な誘惑だった。
夜は、短くも長い。
ねえ、私と貴方を織女と彦星に例えてたなんて、知る由もないでしょう? だって、会いたかったの。 1年に1度なんてわけじゃないけれど、もっともっと会いたくて。 毎日でも会っていたくて。 愛されたくて。 欲張りな私、だけれど……。
「星達も1年に1度会っているだけじゃない……」 「え?」 瑶子は不意に呟かれた言葉に目を開いた。 「雨の夜には人知れず川底の生き物が手を貸して水を渡らせているのさ。 協力者は何もカササギばかりではない……」
甘く囁いた声は、瑶子の心を見透かしての言葉だったのか――。 尋ねることは出来なかった。 その代わり、瑶子はただ微笑んだ。 優しい言葉の、優しい道しるべ。 今こそ言葉に魂が宿ればと。
優しき腕に包まれて。
END
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